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【アラベスク】  第15章 薄氷の鏡



第4節 招き猫 [1]




 緩は複雑な面持ちで席についた。次の授業は世界史。緩の得意な科目だ。
 世界中の歴史には、ゲームの舞台になりそうな、そして実際になった世界が広がっている。この戦争の時、ひょっとしたら敵同士で恋に落ちた二人がいたのかもしれない、などと想像しているだけでも楽しい。
 だが今は、教科書を開いてペラペラと(めく)るだけで、ちっとも集中できない。
 前の授業は体育だった。授業を終え、更衣室へ向う途中の廊下で、大迫美鶴と擦れ違った。
 相手は周囲に誰もいない事を確認してから、擦れ違いざまにこう囁いた。
「誰にもバラす気はない」
 振り返った時、相手はすでに数歩離れていた。思わず呼び止めようとしたが、同級生がやってきた為、断念した。
 バラす気はない。
 それは、コスプレ衣装の事だろうか? それともハマっているゲームの事だろうか? それとも、山脇瑠駆真への恋心の事だろうか?
 どれにしろ、貸しを作ってしまったという事なのよね。
 そう思うと癪だ。だが正直、心底安堵もしている。
 あんな下等な人間の言う言葉など、信用してはならない。
 言い聞かせながらも、やはりホッとせずにはいられない。
 あの日以来、いつ噂が広まるのかとドキドキしていた。廿楽(つづら)という後ろ盾を失った緩への小さなイジメは続いている。さきほどの更衣室でも、緩が使用しているロッカーにマジックで落書きがされていた。体育の授業中の仕業だろう。同級生に欠席者はいなかったから、他クラスの生徒だろう。上級生かもしれない。
 担任に伝えたので数日中には消されるか、もしくは新しい物と交換されるはずだ。だが担任は、そのような手配はしてくれたが、それ以上の事は約束してはくれなかった。約束どころか、口にも出さなかった。
 担任は、犯人を見つけるつもりは無い。この学校において、教師の立場は低い。
 無視をしようとは思っても、もし美鶴にバラされたならひどい辱めを受ける事になるのかもしれないと思うと、気が気ではなかった。
 彼女を刺激するような事をしなければ、とりあえずは平穏を保てるという事になるのかもしれない。
 だが緩の心は複雑だ。
 山脇先輩との関係に、口出しはできないという事だろうか?
 教科書を握り締める。
 納得できない。
 貸しを作ろうがどうしようが、大迫美鶴が山脇先輩を翻弄している事には間違いない。山脇先輩が騙されている事にも違いはない。
 先輩、どうして目を覚ましてくれないの?
 緩の夢想の中では、瑠駆真は呪縛に囚われた悲劇の貴公子。大迫美鶴によって目眩(めくら)ましにあい、本当の恋の相手を見失っている。
 なんとか目覚めさせる方法はないだろうか?
 斜め前の席で、女子生徒が頬杖をつきながら雑誌を眺めている。手作りチョコレートの本。この時期、チョコレートの本は一年で一番売れる。
 バレンタイン。毎年鼻で笑ってきた。チョコレート一つで人の気持ちを釣るなんて馬鹿げている。そう嘲笑ってきた。
 だが、今年は違う。
 私は別に、チョコレートで山脇先輩の御心(みこころ)を釣ろうなんて思っているわけではありませんわ。私の心を押し付けようと思っているわけでもありません。ただ、私の純粋な行動が、先輩の目を覚まさせる良いきっかけになればいいと思っているだけ。
 緩は言い聞かせる。
 そうよ、私は他の浅ましい女たちとは違うわ。ただ一途に先輩の為を想っているだけなのですから。





「手作りぃ 無理無理」
 ツバサは右手の掌を顔の前で左右に振る。
「私が作ったら炭になるよ」
「それはわかってるよ。だってお菓子作る時だってケーキ作る時だって、いっつも一人じゃ作れないんだもん」
「ホンット、ツバサって不器用だもんねぇ」
「わかってるなら聞くな」
 ポカリと頭にゲンコツを落され、少女はペロッと舌を出す。その姿に、向かいに座っておやつのレアチーズケーキを頬張っていた少年が右手をあげる。
「はいっ」
「何よ?」
「でも、たまには手作りチョコレートも貰ってみたいと、男子的には思ってると思いまぁす」
 四月から中学へ進学できるようになり、最近では少し明るさも取り戻してきた少年。相手の目を見て話をする事もできるようなった。
 両親の命を親戚の叔父に奪われた彼は、今でも夜になると突然泣き出す。登校拒否や転校を繰り返し、一年遅れての中学進学。ここまでの道のりは長かった。
 馴染めるだろうかという不安もあるが、中学への進学を決意した少年を皆が褒めるからか、春からの新生活が待ち遠しいらしい。今は、卒業まで休まず小学校へ通う事を目標としている。
 子供は強い。
 自分もまだまだ子供なのだろうが、こういう年下の直向(ひたむき)な強さを見せられると、ツバサ自身もなんとなく強くなれるような気がする。
「俺も一度は手作りって貰ってみたいし」
 その言葉に少女も頷く。
「毎年安い板チョコばっかじゃ、相手の恋心も冷めるよぉ」
「そうそう、そういうところから男女の間にキレツが入るんだよねぇ」
「ガキのくせにわかったような事言うんじゃないっ」
「ガキじゃないっ。もう中学生だ」
「チッチッチ、まだガキね。それにね、毎年安い板チョコってのは何よ。私だってねぇ、バレンタインくらいは奮発するんだから」
 昨年のバレンタイン。ツバサはあれこれ悩み、いくつもの店舗をハシゴした。そうして、コウが一番喜ぶだろうと確信する一つを選び出した。もちろんコウは喜んでくれた。
 二年目の今年。今年だって、手を抜く気は無い。







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